世界・日本初のパチンコ屋・パチンコ!初めて入ったパチンコ屋でジャグラー婆さんとの思い出。
- 2019/02/10
- 22:09
■パチンコの起源
パチンコの起源は何か知っているだろうか?
それは戦前の1900年(明治33年)まで遡る。
この年にヨーロッパで誕生した
ウォールマシンがパチンコの起源である。

※引用元:Wikipedia
その後、1925年にアメリカ発のバガテールという
コリントゲームが日本で広まった。
これは要はゲームセンターにもある
ピンボールやスマートボールみたいなもの。
バガテールの意味は日本語にすると
ちょっとしたもの、つまらないもの
という意味だ。
そして1930年には愛知県で
日本初のパチンコ屋がオープン。
当時の貸し玉は1玉1円だったようだ。
そこから徐々に店舗は増え続けて
戦後の1948年には「正村ゲージ」が
登場する。

今でもどこか馴染みのあるパチンコだが
この正村ゲージの爆発的なヒットにより
間もなくパチンコブームが到来。
翌年には貸し玉は1玉2円になる。
で、1951年には18歳未満の入場が禁止。
それまでは何歳でも入場できたというのだから
驚きである。
その後は規制と緩和を繰り返し
パチンコ業界は急速に発展していくわけだが
こうしてみると、当時からパチンコは
庶民に親しまれた娯楽であることがわかる。
【初めて入ったパチンコ屋】
長いパチンコの歴史に比べると私の
パチンコ人生はたった四半世紀と
短いのだが、今から約25年前
兄貴に連れられて入った古臭い店が
最初のパチ屋デビューである。
ここは商店街にある小さな店で
創業は昭和30年代。
その当時父親もよくここで手打ち式のパチンコを
打っていたそうだ。
名前は〇〇センター(覚えていない)
設置機種のほとんどがパチンコだったが
パチスロも少々設置されており
機種はニューパルやらビガーだったと
記憶している。

©パル工業
まだ学生だった私は兄貴に言われた通りに
いつも平台を打っていたが、勝った分は
そのまま貰えたので良い小遣い稼ぎに
なったことを覚えている。
この店にはその後コンドルなどの技術介入機が
導入されてからは一人で通うようになったのだが
そこでいつも同じ機種、同じ台に座る
推定80歳くらいの婆さんが居た。
その機種は初代ジャグラーだったのだが
朝一はいつも先頭で、毎日同じ台。
おそらく設定は1なのだろうが
絶対にその台に座るのだ。

©北電子
ある時、隣に座る機会があり
私は婆さんのゴーゴーランプが光る度に
目押しする係になっていた。
「あんちゃん最近よく見るね」
目押しして以来、婆さんに話し掛けられる
ようになったが、何故いつもその台に
座っているのか単純に気になって
聞いてみた。
「いつか出ると思ってね」
たしかにこの婆さんはいつもハマっていた。
それでもどんなにハマろうが笑顔で打ち続け
夕方には帰る。
これが婆さんの日課なのだろう。
それ以来、店に行く度に会話するように
なって、私はよくクランキーコンテストを
打っていたのだが、婆さんがいつだったか
ついにジャグラーで爆裂させる日がきた。
その日、婆さんはいつものように
朝から同じジャグラーを打っていて
5分置きに裏の島から目押しを頼みに
来るほどだった。
で、3箱あった出玉から推測するに
設定は6だったのだろうが、婆さんは
いつも通り夕方過ぎにヤメていった。
「いつもありがとうね」
上機嫌の婆さんは帰り際、私の元へ
やってきて、そう言いながら
私の手に何かを握らせた。
開けてみるとそこにはクシャクシャの1万円が
あったのである。
断る暇もなく、店を後にした婆さんは
早々にタクシーに乗って帰ってしまった。
そしてその後、私はその店に何度か
打ちに行ったが、それ以来婆さんを
見ることはなかった。
爺さんに先立たれ、パチスロが生きがいだった
はずなのに、何かあったのではないかと
心配になる私。
出して満足してしまったのか
体調を崩したのかはわからない。
いずれにしても何かあったのだろう。
そう思いつつ、心にポッカリ穴が空いたまま
数か月が経ち、私もいつの間にか
その店には行かなくなっていた。
そんな時、その店の近所にある店が
新装でサンダーを導入したとのことで
覗いてみるとサンダーは満席なものの
それ以外の客はジャグラーに一人。
居なくなった婆さんでした。
長いパチンコの歴史に比べると私の
パチンコ人生はたった四半世紀と
短いのだが、今から約25年前
兄貴に連れられて入った古臭い店が
最初のパチ屋デビューである。
ここは商店街にある小さな店で
創業は昭和30年代。
その当時父親もよくここで手打ち式のパチンコを
打っていたそうだ。
名前は〇〇センター(覚えていない)
設置機種のほとんどがパチンコだったが
パチスロも少々設置されており
機種はニューパルやらビガーだったと
記憶している。

©パル工業
まだ学生だった私は兄貴に言われた通りに
いつも平台を打っていたが、勝った分は
そのまま貰えたので良い小遣い稼ぎに
なったことを覚えている。
この店にはその後コンドルなどの技術介入機が
導入されてからは一人で通うようになったのだが
そこでいつも同じ機種、同じ台に座る
推定80歳くらいの婆さんが居た。
その機種は初代ジャグラーだったのだが
朝一はいつも先頭で、毎日同じ台。
おそらく設定は1なのだろうが
絶対にその台に座るのだ。

©北電子
ある時、隣に座る機会があり
私は婆さんのゴーゴーランプが光る度に
目押しする係になっていた。
「あんちゃん最近よく見るね」
目押しして以来、婆さんに話し掛けられる
ようになったが、何故いつもその台に
座っているのか単純に気になって
聞いてみた。
「いつか出ると思ってね」
たしかにこの婆さんはいつもハマっていた。
それでもどんなにハマろうが笑顔で打ち続け
夕方には帰る。
これが婆さんの日課なのだろう。
それ以来、店に行く度に会話するように
なって、私はよくクランキーコンテストを
打っていたのだが、婆さんがいつだったか
ついにジャグラーで爆裂させる日がきた。
その日、婆さんはいつものように
朝から同じジャグラーを打っていて
5分置きに裏の島から目押しを頼みに
来るほどだった。
で、3箱あった出玉から推測するに
設定は6だったのだろうが、婆さんは
いつも通り夕方過ぎにヤメていった。
「いつもありがとうね」
上機嫌の婆さんは帰り際、私の元へ
やってきて、そう言いながら
私の手に何かを握らせた。
開けてみるとそこにはクシャクシャの1万円が
あったのである。
断る暇もなく、店を後にした婆さんは
早々にタクシーに乗って帰ってしまった。
そしてその後、私はその店に何度か
打ちに行ったが、それ以来婆さんを
見ることはなかった。
爺さんに先立たれ、パチスロが生きがいだった
はずなのに、何かあったのではないかと
心配になる私。
出して満足してしまったのか
体調を崩したのかはわからない。
いずれにしても何かあったのだろう。
そう思いつつ、心にポッカリ穴が空いたまま
数か月が経ち、私もいつの間にか
その店には行かなくなっていた。
そんな時、その店の近所にある店が
新装でサンダーを導入したとのことで
覗いてみるとサンダーは満席なものの
それ以外の客はジャグラーに一人。
居なくなった婆さんでした。
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