1995年スロプロ創世記!パル工業最後の裏モノ『V10』が好きだったタクシー運転手の悲劇。
- 2019/08/21
- 21:51
■今は亡きメーカーの最後の機種
1995年、クランキーコンドルの登場により
パチスロの主役は大量リーチ目マシンから
技術介入マシンへと移り変わろうとしていた。
それと同時にかつて人気機種を数多く輩出
してきたパル工業が、裏モノに直接
関与していたとして解散してしまうことになる。
そんなパル工業はこの年の7月、解散前に
最後の機種を世に送り出した。
それが『V10』である。

©パル工業
設定 | ビッグ | レギュラー |
設定1 | 1/280 | 1/660 |
設定2 | 1/255 | 1/660 |
設定3 | 1/243 | 1/660 |
設定4 | 1/240 | 1/527 |
設定5 | 1/240 | 1/410 |
設定6 | 1/240 | 1/360 |
設定 | 機械割 |
設定1 | 95% |
設定2 | 99% |
設定3 | 103% |
設定4 | 106% |
設定5 | 108% |
設定6 | 111% |
【基本仕様】
本機はA400タイプマシンで『CS51SP』の
正統後継機。
ハズシはそれなりに効果はあったものの
あったものの、導入からしばらく経つと
やはりビガー同様にこの機種も
裏モノ化する。
ただ、時代は既にユニバーサルの
技術介入機に人気を持っていかれ
ビガーほどの支持は得られずに
消えていったマシンである。
【V10の島で出会ったタクシー運転手】
その時、私は困っていた。
ビッグが成立しているのに、7が
揃えられない。
当時、兄貴に連れられて、家から車で
10分くらいの小さな某K店に
よく来ていたわけだが、その日は
兄貴が少し用事があるからと言って
一旦帰ってしまった。
私は兄貴にもらった金でハネモノを
打っていたが、数千円使ったところで
どうもしっくりこないのでヤメ。
その後移動したのがV10だったのだが
※今考えるとおそらく裏モノで
リプ連バージョン。
1000円ですぐに・・・

©パル工業
伝統のトリプルテンパイハズレが降臨。
その後、毎回ズルスベリで7がテンパイするため
当時パチスロ初心者の私でも、ボーナスが
入っているのだろうということは分かった。
ただ7が見えないのである。
※正確に言うと、タイミングが取れない。
しばらくリールを見つめていると
後ろから男の手が伸びてきて
ポンポンポンと7を揃えてくれた。

「7ぐらい押せなきゃダメだよ~」
そう言って、推定30代後半の彼は
後ろのV10でタコ出ししていたのだが
私は夕方くらいになり、兄貴が戻ってくると
同時にヤメ。
その時に彼に呼び止められて
この雑誌読んで勉強してみるといいよ
と渡されたのが、その後、私の愛読書となる
パチスロ必勝ガイドだった。

これがV10好きのタクシー運転手との
初めての出会いである。
その後、運ちゃんとはパチ屋で会う度に
話すようになり、パチスロの基本的な
ことを色々と教えてもらった。
当時はよく一緒に行っていた兄貴も
パチスロは打つのだが、どちらかと言えば
パチンコ派だったので、彼の方が
詳しかったのである。
彼がいつも打っていたV10は
ビガーと同じく小役前兆モノタイプで
リプ連が前兆になる裏モノだった。
制御もスベリが熱く、滑って7が
上段テンパイすれば2確となる。
つまりリプ連が続いた後に
このパターンが発生すると悶絶
というわけである。
当時はその熱さはわからなかったわけだが
それからしばらくして、私がパチスロを
一人で打ちに行くようになると
朝一でタクシーの運ちゃんにK店まで
送ってもらうようになる。
そしてそのまま二人で打つ。
彼は大体V10を打ち、私は
クランキーコンテストである。
彼は個人タクシーだったため
よく仕事をサボってパチスロを
打っていたのだが、打ち終わると
いつも飯を奢ってもらい、見た感じでは
タクシーの運ちゃんの割には随分と
羽振りが良かったように見えた。
結婚もしていて何かと金が掛かるとは
思うのだが、パチスロで勝っていたのだろう。
・・・だが、それから一か月くらいすると
彼と急に連絡が取れなくなった。
何があったのかは知らないが
私は特に気にせずにコンテスト漬けの
日々を送っていた。
・・・そしてさらに半年以降が経過した
1998年頃。
K店のV10が撤去され、レッツだったか
サンダーVだったかが新台入れ替えで
導入された。
私は運ちゃんの存在もすっかり
忘れていたが、K店でいつものように
コンテストを打っていると
「久しぶり!」
運ちゃんだった。
話を聞くと、彼は離婚した後
すぐにタクシーの仕事を辞めて
スロプロになったと言う。
で、今は他に状況の良い店があるからと
そこを凌ぎの場所にしているようだった。
・・・90年代半ばから後半にかけては
このようにスロプロ人口が一気に増加した。
原因は技術介入機ブームで
目押しさえできれば誰でも勝てたからである。
そんな甘い時代の蜜を吸うために
私も彼もスロプロになったうちの一人であり
彼は家庭を捨てて仕事を捨ててまで
スロプロの道を選んだのである。
ただその後、彼は大量獲得機が
登場する頃になって、スロプロを
廃業してしまう。
無類の酒好きのせいで病に侵されたのだ。
一度だけ入院先にお見舞いに行ったが
彼の元気はなかった。

歳は40手前で無職のスロプロ。
離婚して仕事を辞めて自由になり
これからスロプロとしてようやく第二の人生を
歩み始めるという時にこれである。
体が資本であるのに、病のせいで
うまく動けなくなったのだから
元気がないのも当然だろう。
私はその後、彼に会うことは
二度となかったわけだが
どうも最近になってふと思い出してしまう。
それは当時の彼と今の私が
どこか似ているからかもしれない。
彼がもし今、回復して真っ当な人生を
歩んでいるのなら、こう伝えたい。
スロプロを廃業して正解だったと。・
その時、私は困っていた。
ビッグが成立しているのに、7が
揃えられない。
当時、兄貴に連れられて、家から車で
10分くらいの小さな某K店に
よく来ていたわけだが、その日は
兄貴が少し用事があるからと言って
一旦帰ってしまった。
私は兄貴にもらった金でハネモノを
打っていたが、数千円使ったところで
どうもしっくりこないのでヤメ。
その後移動したのがV10だったのだが
※今考えるとおそらく裏モノで
リプ連バージョン。
1000円ですぐに・・・

©パル工業
伝統のトリプルテンパイハズレが降臨。
その後、毎回ズルスベリで7がテンパイするため
当時パチスロ初心者の私でも、ボーナスが
入っているのだろうということは分かった。
ただ7が見えないのである。
※正確に言うと、タイミングが取れない。
しばらくリールを見つめていると
後ろから男の手が伸びてきて
ポンポンポンと7を揃えてくれた。

「7ぐらい押せなきゃダメだよ~」
そう言って、推定30代後半の彼は
後ろのV10でタコ出ししていたのだが
私は夕方くらいになり、兄貴が戻ってくると
同時にヤメ。
その時に彼に呼び止められて
この雑誌読んで勉強してみるといいよ
と渡されたのが、その後、私の愛読書となる
パチスロ必勝ガイドだった。

これがV10好きのタクシー運転手との
初めての出会いである。
その後、運ちゃんとはパチ屋で会う度に
話すようになり、パチスロの基本的な
ことを色々と教えてもらった。
当時はよく一緒に行っていた兄貴も
パチスロは打つのだが、どちらかと言えば
パチンコ派だったので、彼の方が
詳しかったのである。
彼がいつも打っていたV10は
ビガーと同じく小役前兆モノタイプで
リプ連が前兆になる裏モノだった。
制御もスベリが熱く、滑って7が
上段テンパイすれば2確となる。
つまりリプ連が続いた後に
このパターンが発生すると悶絶
というわけである。
当時はその熱さはわからなかったわけだが
それからしばらくして、私がパチスロを
一人で打ちに行くようになると
朝一でタクシーの運ちゃんにK店まで
送ってもらうようになる。
そしてそのまま二人で打つ。
彼は大体V10を打ち、私は
クランキーコンテストである。
彼は個人タクシーだったため
よく仕事をサボってパチスロを
打っていたのだが、打ち終わると
いつも飯を奢ってもらい、見た感じでは
タクシーの運ちゃんの割には随分と
羽振りが良かったように見えた。
結婚もしていて何かと金が掛かるとは
思うのだが、パチスロで勝っていたのだろう。
・・・だが、それから一か月くらいすると
彼と急に連絡が取れなくなった。
何があったのかは知らないが
私は特に気にせずにコンテスト漬けの
日々を送っていた。
・・・そしてさらに半年以降が経過した
1998年頃。
K店のV10が撤去され、レッツだったか
サンダーVだったかが新台入れ替えで
導入された。
私は運ちゃんの存在もすっかり
忘れていたが、K店でいつものように
コンテストを打っていると
「久しぶり!」
運ちゃんだった。
話を聞くと、彼は離婚した後
すぐにタクシーの仕事を辞めて
スロプロになったと言う。
で、今は他に状況の良い店があるからと
そこを凌ぎの場所にしているようだった。
・・・90年代半ばから後半にかけては
このようにスロプロ人口が一気に増加した。
原因は技術介入機ブームで
目押しさえできれば誰でも勝てたからである。
そんな甘い時代の蜜を吸うために
私も彼もスロプロになったうちの一人であり
彼は家庭を捨てて仕事を捨ててまで
スロプロの道を選んだのである。
ただその後、彼は大量獲得機が
登場する頃になって、スロプロを
廃業してしまう。
無類の酒好きのせいで病に侵されたのだ。
一度だけ入院先にお見舞いに行ったが
彼の元気はなかった。

歳は40手前で無職のスロプロ。
離婚して仕事を辞めて自由になり
これからスロプロとしてようやく第二の人生を
歩み始めるという時にこれである。
体が資本であるのに、病のせいで
うまく動けなくなったのだから
元気がないのも当然だろう。
私はその後、彼に会うことは
二度となかったわけだが
どうも最近になってふと思い出してしまう。
それは当時の彼と今の私が
どこか似ているからかもしれない。
彼がもし今、回復して真っ当な人生を
歩んでいるのなら、こう伝えたい。
スロプロを廃業して正解だったと。・
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