私がスロプロにもなるきっかけにもなった
機種であるCCエンジェルは以前紹介したが
今回はスロプロとして初めて私が喰わせてもらった
機種と当時の思い出について紹介していこう。
スロプロになるきっかけの台『CCエンジェル』ユニバ初のマックスベット採用機でビギナーズラックとリーチ目探し■技術介入機クランテとの出会い1997年6月。
クランキーコンドルやタコスロ、ゲッターマウスなど
ユニバ系の技術介入機が続々と登場する中
この年の6月に、コンドルの正統後継機として
クランキーコンテストが登場する。

©ユニバーサル

※ボーナス確率設定 | ビッグ | レギュラー |
設定1 | 1/273 | 1/606 |
設定2 | 1/264 | 1/528 |
設定3 | 1/256 | 1/481 |
設定4 | 1/248 | 1/442 |
設定5 | 1/244 | 1/409 |
設定6 | 1/240 | 1/381 |
※機械割設定 | 機械割 |
設定1 | 95,46% |
設定2 | 97,74% |
設定3 | 99,80% |
設定4 | 101,87% |
設定5 | 103,55% |
設定6 | 105,23% |
【基本仕様】本機はA400タイプのノーマルマシン。
当ブログでも何度も登場している本機だが
今回は改めて紹介させていただく。
コンドルの後継機としてデビューした本機は
ビタ押し必須の技術介入機で、難易度は
よりアップしており、オール適当打ちでは
設定6でも機械割は100%を超えない。
※フル攻略であれば1で100%
6で109%ほどになる。通常時はチェリー、スイカだけでなく
ベルも取りこぼしポイントがあり
左リールに上にチェリーのついた青7を
狙うと、制御でチェリーとベルをこぼす
可能性があった。
ビッグ中はハズシは要ビタ押しだが
逆押しで中段にリプレイが停止した際は
逆ハサミで左枠上か上段にチェリーつきの
コンドルを狙うことで2コマのアシストハズシが
可能となる。
またジャックゲーム中の払い出し枚数は14枚と
少なく、ハズシを完璧に行った際の
平均獲得枚数は約390枚とやや少なめ。
こうしたコンドルとはあまりにもかけ離れた
辛さと難易度故に、当時のホールは高設定を
多用していた。
当然目押しに自信がある者にとっては
甘い台となったため、プロの間では
比較的人気の高かった機種である。
尚、兄弟機にはクランキーコンテスト2があり
こちらはジャックゲーム中の払い出し枚数は
15枚となっており、スペックも甘くなっている。
あまりの甘さ故に稀だった機種だが
有名所では今は亡きエルニドに設置してあった。
1998年パチスロ!昭和のパチンコ屋でレア台!激甘機『クランキーコンテスト2』が裏モノに・・・
■技術介入機クランテとの出会いパチスロが自分の人生を変えた。
そのことに気付いたのはクランテと
出会った頃だった。
・・・1997年夏に名機クランキーコンドルの
正統後継機としてデビューしたコンテストは
当時のプロの間では凌ぎの一機種として
重宝されていた台。
私がコイツに出会ったのは、忘れもしない
思い出のT店。

T店は商店街の外れにあった田舎の小さな
パチンコ屋で、当時夕方にもなれば、ほとんどの台が
満席になるほどの繁盛店だった。
高校生の時、父親の事業が失敗し
卒業が迫った頃には学費が払えない状態に
なっていた。
そこで思い付いたのが、パチスロで
生活費を稼ぐということ。
既にパチンコ・パチスロにハマっていた私は
コンドルやレッツなど、ユニバ系の甘い
技術介入機は打っていたのだが
特にそこまで設定を意識してはいなかった。
それは意識する必要がないほど甘い台だったことも
理由の一つだが、あくまでパチスロは娯楽として
捉えていたからだ。
ただ、攻略誌を読み、パチスロは勝てるとの
認識があった私は、娯楽ではなく
金を稼ぐための手段に変わっていった。
それを意識したのがコンテストだった
というわけである。

©ユニバーサル
・・・某日。
T店にコンテストが一列導入されたことがきっかけで
設定判別を強く意識するようになった私。
コンテストは当時のユニバ系の技術介入機
としては辛めであり、フル攻略で初めて
喰える台に化ける。
そのおかげもあって年配客が多かったT店には
毎日設定5以上が多く投入されていたのだ。
私の日課は毎日T店に行き、設定を上げてきそうな
台に座り、まずは変更判別。
当時のユニバの筐体はリールのガックンが
現在のサミーほど分かりやすく、もちろん
ガックンすればリセット確定。
※既に雑誌などでリセット時はリールがブレる
という情報は紹介されていた。そして減算値による設定5以上判別を行い
落ちれば夜まで粘る。
※「判別が落ちる」という言い方は
基本的に判別プレイで小役が落ちれば
落ちるほど設定の期待度が高まったことから
そう呼ぶようになった。この一連の作業を学校をサボって繰り返していた。
学費を稼ぐためにパチスロを打っているのに
気が付けば学校には行かず、毎日
パチンコ屋に通う。
毎日T店に通う中で、常連の年配客や
スロプロとも仲良くなり、決して居心地は
悪くなかった。
パチ屋に行く行為が好きになっていたのである。
おかげで高校卒業間際には学費を払っても
手元には数百万もの金が残った。
それが良かったのか悪かったのかは
分からないが、真っ当な人間であれば
ここで卒業後もプロとして喰っていこう
という考えにはならなかったはずだ。
だが、私は憧れのパチプロ田山氏や
誌上プロの第一人者であるしのけん氏の
記事を読んで、スロプロとして生きていこうと
決めたわけだ。
こうして学費を稼ぐために一時的なスロプロになったはずが
気が付けば卒業後も道の外れた人生を
歩むことになった私。

©ユニバーサル
・・・そして大量獲得機やCT機などの
新基準機などの機械割が140%を超えるような
ハイスペック時代にはいわゆる軍団を結成して
人を雇うようになり、4,5号機の頃くらいまで
様々な店の強いイベントや新規オープンを狙う
イベントプロ、開店プロとして生きることになる。
4号機以降では最もオイシイと言われた時代に
必死にパチンコ・パチスロを追いかけ
一財産を築き上げたが、目が覚めた
4号機末期の頃には既に遅かった。
周りは家を買い、結婚をして、子供を作る。
社会人として真っ当な生活を送っているのを見て
私もそろそろ・・・
なんてことは少し考えた。
スロプロとして第一の潮時だった2005年頃
そんなことには当に気付いていたものの
ズルズル辞めるタイミングを逃し、今では
この稼業を続けて23年になる。
若くしてクランテで勝ち方や立ち回りの術を身に付けた
ばっかりに、道の外れた方向へ進み続け
前の道はどんどん狭くなり、後ろの道には
イバラが生えている。
・・・金を稼ぐために始めたパチスロが
自分の人生をも変えてしまった。
それが良い方向であれば良かったが
仕事もせず、結婚もせず、今では酒ばかり飲む毎日。
若いうちに金を持つとロクなことにならない
というわけである。
ただ、あの日、あの時、あの店で
右枠下青7の魅力を知ってから
私の人生の時間は止まったままである。
シェアして皆に教えよう!
http://mitihazure.blog.fc2.com/blog-entry-1515.htmlパチスロが自分の人生を変えたのか~ギャンブルを生活の糧として生き始めた高校生スロプロ~
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