元パチプロ・スロプロのプロ雀士お笑い芸人『アンジャッシュ児島一哉』売れない頃の児嶋が通っていたパチンコ屋
- 2020/10/05
- 10:03
お笑い芸人は仕事が無い時の稼ぎの手段として
パチンコ・パチスロで生計を立てる、ということが
よくあるそうだ。
また、お笑いで売れる見込みが無く、パチンコ業界に
転向して稼ぐ者も居る。
有名どころでは現在フリータレントとして主に
パチンコ番組で活躍している「くり」は
元々アームストロングというコンビを組んでいたし
あきげんの「秋山良人」やプラッチックの
「ニッタロビンソン」はコンビを解散せずに
パチンコ業界を主な主戦場としている。
で、今回紹介するのは現在YouTubeで
大人気のアンジャッシュ児嶋一哉について。
先日兄貴から彼について興味深い話を
聞くことができたのでそれを記事にしよう。

【アンジャッシュ児嶋のプロフィール】
本名:児嶋一哉
生年月日:1972年7月16日
身長:178,5センチ
体重:不明
出身地:東京都八王子市
血液型:A型
現職:お笑いタレント・ユーチューバー
所属事務所:プロダクション人力舎
前職:無し
芸人以外の肩書き:プロ雀士
配偶者:坪井志津香(2011年~)
ペット:ねね(犬)
◎経歴
高校卒業後、同級生にお笑いタレントのヒロミの妹が
居り、彼女に頼み込んでヒロミに弟子入りしようとするも
断られてしまい、ヒロミから人力舎のタレント養成所
スクールJCAが開校するから、そこに入れと
勧められたのをきっかけにお笑いの世界に入る。
※1992年にピン芸人としてデビュー。
その後、高校の同級生だった渡部健を誘い
1993年、お笑いコンビであるアンジャッシュを
結成したというわけだ。
そしてその後は努力の甲斐もあって、気が付けば
東京一のコント師と言われるようになる。
綿密に計算されたすれ違いコントは
誰もが知っているほど有名だろう。
【渡部健の不貞行為発覚も・・・】
2020年6月、相方の渡部健氏のトイレ不倫問題で
渡部氏は活動を自粛したわけだが
その影響で好感度が爆上がりした児嶋。
現在ユーチューバーとしても活躍しているのは
皆ご存知の話だが、実は彼のもう一つの肩書きが
プロ雀士というのも有名な話だろう。

フジテレビの人気麻雀番組である
『THEわれめDEポン』に出たいがために
プロ資格を取ったというのだから
実に仕事熱心というか麻雀好きなことが
伺える。
だが、これはあまり知られていない話だが
彼は過去にさらにもう一つの肩書きがあった。
それがパチスロで生計を立てる『スロプロ』
だったということである。
【スロプロ児嶋時代の話】
彼がパチスロで生計を立てていたのは
ちょうど1990年~1993年頃だったようで
その時期だと3号機~4号機初期の時代。
そのパチスロで勝った金でスクールJCAの授業料を
払っていたというのだから驚きである。
で、実はこの時期はこのブログに登場する
私の兄貴とは違うもう一人の兄貴が、当時
東京の今は亡きパチンコ屋Jで店員をやっており
そこでいつも勝っていた若い男が居たらしく
それが児嶋だったようだ。

J店は東京にあった小さめパチンコ屋で
当時は今よりも数多くの店が点在していた。
当時パチンコ屋にはモーニングという
朝一のサービスがあり、開店からボーナスが
成立している状態の台があったのだ。
それを狙って毎日のようにJ店に
来ていたという児嶋。
当然この時は兄貴も彼がこれほど有名になるとは
思ってはいなかっただろうが、毎日店に来るほどの
常連だったので次第に話すようになったという。
ちなみに彼が朝狙っていたのは3号機
『コンチネンタルⅢ』や『アラジンⅡ』のモーニング
だったようだ。
これらの機種にはボーナスの他に
それぞれ集中役「セブンラッシュ」と
「アラジンチャンス」が搭載されていたのだが
どちらも裏モノで爆発力も高く、これらが
モーニングとして用意されていることもあって
他の客にも相当な人気があったわけだ。

©メーシー
児嶋はJ店でモーニングを取り終えると
その後はニューパルに移動して、設定判別を
行う。
これが彼の主な立ち回りで、基本的にはいつも
一人で勝っていたという。
そして打ち終わるとJ店の近くにある小さな定食屋で
いつも一人で餃子定食を食べていたそうだ。
※たまに兄貴が仕事終わりで店に入ると
何度か遭遇したらしい。
「お笑いで売れたい」
そんなことを餃子定食を喰らいながら
兄貴に語っていた児嶋だが、1995年
4号機クランキーコンドルが登場する頃には
すっかり彼の姿を見なくなったという。
※兄貴はJ店で5年ほど店員を務めた。
・・・それから20数年後、児嶋は
今や業界を代表するお笑い芸人になった。
兄貴の話が本当かどうかはこの際置いておいて
売れない芸人がパチスロで生計を立てる
というのはよくある話で、J店では他にも芸人?だと
勝俣邦和も来たのを目撃したことがあるという。
そんなJ店も2004年頃のみなし機撤去
時期には閉店したようで、ピーワールドで
調べてみると、今は別のパチンコ屋に
なっているようだ。
・・・元スロプロのプロ雀士児嶋。
もし彼がお笑いの道に進んでいなければ
今頃はスロプロ兼プロ雀士として
こちら側の業界で活躍していたかもしれない。
彼がパチスロで生計を立てていたのは
ちょうど1990年~1993年頃だったようで
その時期だと3号機~4号機初期の時代。
そのパチスロで勝った金でスクールJCAの授業料を
払っていたというのだから驚きである。
で、実はこの時期はこのブログに登場する
私の兄貴とは違うもう一人の兄貴が、当時
東京の今は亡きパチンコ屋Jで店員をやっており
そこでいつも勝っていた若い男が居たらしく
それが児嶋だったようだ。

J店は東京にあった小さめパチンコ屋で
当時は今よりも数多くの店が点在していた。
当時パチンコ屋にはモーニングという
朝一のサービスがあり、開店からボーナスが
成立している状態の台があったのだ。
それを狙って毎日のようにJ店に
来ていたという児嶋。
当然この時は兄貴も彼がこれほど有名になるとは
思ってはいなかっただろうが、毎日店に来るほどの
常連だったので次第に話すようになったという。
ちなみに彼が朝狙っていたのは3号機
『コンチネンタルⅢ』や『アラジンⅡ』のモーニング
だったようだ。
これらの機種にはボーナスの他に
それぞれ集中役「セブンラッシュ」と
「アラジンチャンス」が搭載されていたのだが
どちらも裏モノで爆発力も高く、これらが
モーニングとして用意されていることもあって
他の客にも相当な人気があったわけだ。

©メーシー
児嶋はJ店でモーニングを取り終えると
その後はニューパルに移動して、設定判別を
行う。
これが彼の主な立ち回りで、基本的にはいつも
一人で勝っていたという。
そして打ち終わるとJ店の近くにある小さな定食屋で
いつも一人で餃子定食を食べていたそうだ。
※たまに兄貴が仕事終わりで店に入ると
何度か遭遇したらしい。
「お笑いで売れたい」
そんなことを餃子定食を喰らいながら
兄貴に語っていた児嶋だが、1995年
4号機クランキーコンドルが登場する頃には
すっかり彼の姿を見なくなったという。
※兄貴はJ店で5年ほど店員を務めた。
・・・それから20数年後、児嶋は
今や業界を代表するお笑い芸人になった。
兄貴の話が本当かどうかはこの際置いておいて
売れない芸人がパチスロで生計を立てる
というのはよくある話で、J店では他にも芸人?だと
勝俣邦和も来たのを目撃したことがあるという。
そんなJ店も2004年頃のみなし機撤去
時期には閉店したようで、ピーワールドで
調べてみると、今は別のパチンコ屋に
なっているようだ。
・・・元スロプロのプロ雀士児嶋。
もし彼がお笑いの道に進んでいなければ
今頃はスロプロ兼プロ雀士として
こちら側の業界で活躍していたかもしれない。
シェアして皆に教えよう!
- 関連記事
-
『鬼滅の刃』がパチンコ&パチスロ化?ジャンプの人気漫画がパチンコパチスロにならない理由
某パチンコ屋の店長からサクラを持ち掛けられた話と実際のメール内容(4号機~6号機)
- 元パチプロ・スロプロのプロ雀士お笑い芸人『アンジャッシュ児島一哉』売れない頃の児嶋が通っていたパチンコ屋
6号機最強にオイシイ『青鬼』有利区間継続(引き継ぎ)台を打たずに見抜く方法と有利区間継続台の期待値
パチンコ遊タイム(天井)はどれくらい勝てるのか?一か月の遊タイム狙いの収支結果&実戦データ公開